ご無沙汰しております。華咲です。
記事を書くのは、今年夏の廃校祭り以来ですね。
とても少ない更新頻度で、辞めてしまったのでは無いかとご心配頂く声もありますが
今でも訪問はしていますのでご安心下さい^^
さてさて、久々の記事でこんな事を書くのもどうかと思いましたが、今回は
2012年12月25日にミリオン出版様より発売される本『
廃校遺産 the ruins of a school 』の
紹介記事になります。

華咲、趣味で廃校巡りはしていますが、この類の本はあまり購入する事はありません。
でも今思えば・・・、廃校を専門にしている本って、耳にした事が無いかも!?
一昨日見本が届き、掲載されている廃校数を確認したのですが、その数なんと全26校。
驚愕の収録数です。
まだ全ての記事に目を通してはいませんが、懐かしさを感じる廃校写真に加えて
それぞれの廃校について、沿革が分かりやすく文章化されていて、内容も充実して
いるように感じました。
廃校の外観・教室だけでは無く、落書きや張り紙、残された物達に焦点を当てている
写真選択も素敵です。
写真が充実しているので、廃校を訪問した事の無い方、実際に訪問出来ない方でも
その廃校を訪問しているかの様な気分で読み進められる紀行写文集となっています。
華咲も下の廃校で写真提供させて頂きましたが、他の廃校写真も沢山掲載されて
いますので、本屋などで見掛けましたら手に取って見て頂けると嬉しいです。
※少ないですが、下記廃校で協力させて頂きました※
◆八王子市立浅川小学校上長房分校 (廃校遺産:p172)
都内で唯一の分校。平成16年に休校、平成19年に廃校となりましたが
同年、みどり幼稚園として再生しています。
◆塩山市立松里小学校滑沢分校 (廃校遺産:表紙/p94~p101)
明治41年に創設された分校。昭和49年に休校、平成24年に廃校となり
同年、滑沢分校は解体されています。

その学び舎は 子どもたちにとって
世界の中心 だった -
山間と海辺の 限界集落で静かに眠る
忘れじの校舎を カメラに焼き付け
郷愁と愛情の空間に 心を誘う紀行写文集。
『
廃校遺産 the ruins of a school 』
2012年12月25日発売
日本廃墟村
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2012年8月15日
今日は年に一度の廃校の日。
こんな素敵な日を設定して下さったのは『
廃ダイナミックレンジ ~廃墟HDR~』の山下さん♪
山下さん、こんな楽しい企画を考えてくれてありがとう!!
この廃校夏祭りに参加するにあたり、記事の内容を2週間程考え続けていたのですが
この企画に相応しい廃校でピンとくる学校がありませんでした。

でも、このような機会に記事にしたいと思っていた現役の小学校があります。
しかしその学校は、今回の趣旨に沿った内容(廃校)ではありません。
現在使用されている校舎でもありません。
その学校は、いつか記事にしたいと思いつつ、不謹慎では無いか?とか
命を落とされた方々の事を考えると、色々な事が頭を巡り、記事にしてもアップ出来ずにおりました。
そんな迷いから記事をアップする事が出来ず、それでもずっと頭の片隅にあった小学校、
今回の記事対象として最初に浮かんだのが岩手県大船渡市三陸町にある
『越喜来(おきらい)小学校』
2011年3月11日の震災で津波の被害を受けた小学校です。
続きは、下記展開先にございます。
[READ MORE]のリンクをクリックしてお進み下さい。
先週末、山下さんが関東遠征で東京にいらっしゃると云う事で
関東の廃好きさん数名と一緒に廃景案内役として、山梨&静岡の探索に参加させて頂きました。
早朝から数か所の廃景を巡り、
夕方にはチーム酷道さちさんお勧めの今回メインの建造物『松里小学校滑沢分校』へ。
(写真:去年秋に撮影した滑沢分校へ続く道。手前の道路は秋の落葉も綺麗に取り除かれており走り易い)

(写真:去年秋に撮影した滑沢分校へ続く道。大量の落葉で道が見えなくなっています。)

実はこの滑沢分校、昭和49年3月31日に休校となってから、既に30年以上経過しているのです。
余話になりますが、昭和49年当時、同地区甲州市塩山に現役として在ったもう一つの分校
「一之瀬分校」も現在は休校中となっている様です。
アクセスし辛く分かり難い場所に在った事からでしょうか、
三十年以上休校扱いとされていた分校にしては目立った建物の崩れ等は無く、
大変状態の良い分校だった事を覚えています。
(写真:木の奥に見える木造の建物が滑沢分校)

この日二台の車で行動していた為、先に到着していたチーム七零(七零さん、さちさん、華咲)メンバーは
廃村滑沢の空地に車を停めてチーム世来(世来さん、山下さん、U1さん)の到着を待っていました。
その待ち時間中、最初に異変に気が付いたのは
同じく滑沢分校の魅力に取り憑かれていた酷道・林道マニアの七零隊長。
それは車を停めてから十数分後のことでした。
七『あれ!?ねえ!学校が無くなってる!』
突然七零隊長が発した言葉に、さちさんも華咲も笑いながら
『七零隊長ったら、またそんなご冗談を、、、』と云った和やかムード。
しかし、そんな2人の笑い声を掻き消す様に、続けて七零隊長の叫び声。
七『が、がっこうが、、、な、ない!学校が無くなってるよ!解体されてる!』
二度目の叫びに間髪を容れずさちさん。
さ『何冗談言っとるんや!』
そして、滑沢分校は休校中である、そう思っていた私も余裕の表情で
華『七零隊長、学校はありますよ。解体はされていませんよ。』
それでも、15m程先に立っていた七零隊長は言葉を続けます。
七『ここに学校があって、あそこに遊具があって、確かこの辺りに入口があって、、、』
(写真:七零隊長の説明を聞きながら、廃村の奥へ目をやるが・・・廃校の姿は確認出来ず。)

真剣な表情で説明を続ける七零隊長。
その足元に目を落とすと、微かに見覚えのある低い石垣。
頭の中で数ヶ月前に見た記憶を辿っていると、やがて七零隊長の声は遠くなり、、、
ぼんやりとした分校の記憶映像の中に、分校を囲うその石垣がはっきりと見えてきました。
同じタイミングで表情が曇ったさちさんと慌てて隊長の元へ駆け寄り
更地となった分校跡の教室があった場所に三人で呆然と立ち尽くしました。
門柱が無い。
二宮金次郎像が無い。
(写真:解体前の滑沢分校内の外れた窓の一部から見える校庭側の二宮像)

錆び付いた子供達の遊具が無い。
小さな分校を守るかの様に生えていた木々が無い。
(写真:去年秋に訪問した時の分校)

此処に通っていた方々の思い出が残されていた学び舎が・・・無い。
(写真:今回の訪問した時の分校跡)

程なくして、さちさんが数メートル先に落ちている何かのファイルに気付きました。
それは雨に濡れて表紙の歪んでしまった
『滑沢分校解体工事』のファイル。
(写真:更地に忘れられた解体工事のファイル。)

ファイルの中身に目を通すと工期や入札金額、
処分された分校の備品一覧などが書かれていました。
(写真:記憶に残る品々が処分品一覧に列んでいます。※一部画像をぼかしています。)

工程表を確認すると、今年の2月14日から始まった解体工事。
解体工事が完了した日は、奇しくも私達が訪問した前日でした。
こんなタイミングってあるでしょうか・・・。
しかも更地跡には、このファル。
足元を見ると、まだ新しい重機のタイヤ痕も確認出来ます。
(写真:更地となった滑沢分校跡に落ちていたファイルを涙目で読んでいるさちさん。※本人部分ぼかしています。)

衝撃的な出来事に言葉を失い・・・、更地に残ったタイヤ痕をぼーっと眺めていると、
此処にひっそりと佇んでいた小さな学舎の思い出映像が流れて行きました。
(写真:壁に張られた少女の写真。)

(写真:学校教材と昭和中期のさんすう教科書。)

(写真:この教科書も古い。昭和30年頃の国語教科書。)

(写真:1972年に発行された雑誌「フォト」には、札幌五輪開幕の記事。)

(写真:同じく1972年に発行された雑誌「フォト」の記事には
同年中国より上野動物公園へやってきたパンダのカンカン(康康)とランラン(蘭蘭)の記事。)

(写真:学校では良く見かける『正しい姿勢』のポスターも、時代を感じるイラストとなっている。
右側に張られている日課表の単位も今では見掛ける事が無い。)

(写真:2畳ほどの狭い職員室には、村のお祭りに使用されていた灯篭の様なものが置かれていた。
無病息災・景気向上・村内平和・・・・等、村人の願いを込めた文字が書かれていた。)

(写真:僻地分校に残る僻連の僻地概況。発行年度は昭和48年。この翌年、昭和49年には滑沢分校は休校に。)

(写真:分校正門側の絵。おそらく此処に通っていた生徒の作品。)

(写真:算数用の教材)

(写真:昭和三十四年の台風被害の翌年、塩山市教育委員会の方が書き残した書き置き『滑沢分校に就いて』。)

(写真:崩し字で判読不能な箇所もありましたので、資料としての写真もアップしておきます。)

街の方へ戻ろうとした時に、後から来た世来チームとすれ違いました。
此方のチームの皆様に、この事実を伝えると全員がきょとんとし驚いた表情をしていました。
それもそのはず。前日の解体完了ですからね(^_^;)
(写真:滑沢分校図面。私が最後に確認した机と椅子の配置通りに図面が書かれていました。)

今年もまた一つ、貴重な木造分校が消えて行きました。
最近閉校となった岡山県の吹屋小学校の様に大切に保管される学舎もあれば、
こうやって村に子供達が戻る事を願い、休校と云う形を取り大切にされ続けたのにもかかわらず
解体を余儀なくされた学舎の姿もあるのですね。

子供達が戻るのを待ち続けた松里小学校滑沢分校。
結局、この分校に子供が戻る事はありませんでしたが
廃村に佇む休校中校舎の姿は、卒業生は勿論のこと、
きっときっと此処を訪れた方々の記憶の中にも、
懐かしさを感じる学舎の姿は永遠に残るのだろうな、そう思います。

長い年月のお務め・・・ご苦労様でした。